さくらんぼ穫り

意図と意味がないように。思い出と日記と好きな事。

日々のあぶく

昨日23年間住んでいた東京から静岡に引っ越した。

 

荷物を運ぶのは家族が手伝ってくれたため車で4時間ほどかけて行った。

 

行く時普段はあまり通らない道を通った。

 

その道である事を思い出した。

 

 

 

 

僕は小学生の頃サッカークラブに所属していた。

高校卒業の際に当時のチームメイトと当時のコーチ達であるグランドで試合をして

帰ってからコーチ達含めて皆で打ち上げがてら飯を食べに行った。

 

 

たったそれだけの事を思い出した。

もちろん楽しかったのだけど

格別楽しかった、というほどでも無いし

楽しかった記憶を思い出したわけでも無い。

 

実はオチがあったり、この中で

めちゃくちゃ面白い出来事があったわけでも無い。

 

本当に

「そういえばそんなことがあったなぁ」

とフッと思い出しただけ。

 

 

 

めちゃくちゃ楽しい事であれば

2年に一回くらいは思い出して

思い出に浸ると思う。

 

面白い事があれば色んな人に話して

忘れる事がないと思う。

 

ただこの記憶の事を多分誰かしらに話した事もなければ

思い出して懐かしんだ事も恐らくない。

 

こんな風に本当に特に印象のない事を思い出すことは

本当にごく僅かな気がする。

 

そして普段思い出したり喋ったりしない分

手垢が付かず、無意識な状態の中での記憶の改竄もされずに

頭の中に残ってるモノでもある気がする。

 

 

そういう類の、手垢の付かない記憶を思い出すのは

視覚や聴覚や嗅覚等の五感を通した時だけだと思う。

 

それを思い出すきっかけもほぼ無ければ

思い出そうと意識すると、どうしてもそこで

多少の記憶の改竄は起こってしまうと考えてるからだ。

 

現実に今回そんなサッカークラブでの出来事を思い出したのも

その試合を行った時の帰り道を

静岡に向かう車で通ったからである。

 

 

だから最初に思い出した事は

「この道は一回皆でチャリンコで帰った」という事で

多分それが一番手垢も付かず、改変もされていない記憶だと思う。

試合の事とかは「何の帰り道だっけ?」と

考えて思い出した事だから。

 

そのため本当に手垢も付かず、改竄もされてない記憶は

サッカークラブでの会、の記憶ではなく

「皆で帰った帰り道」の記憶だと思う。

 

 

 

 

 

 

話が逸れたから立て直す。

 

ようは僕は

こういう手垢も付かず改竄もされていない記憶を思い出すのは

五感を通した時だけだと考えている。

 

そして引っ越しをして地元を出る事で

もう当時見ていた景色を見るチャンスは無くなった。

 

それはつまり

そこで見た事の、手垢の付かない記憶を

(少なくとも視覚を通して)思い出す機会も無くなったという事だと思う。

 

 

手垢の付かない、改竄もされていない記憶は

つまりは、わざわざ思い出したり話したりする必要が無い記憶だ。

覚えていて今後何かの役に立つこともなければ、
忘れて悔やむ価値もないような記憶ばかりだと思う。

 

 

 

でもそんな記憶を忘れるのは割と寂しい。

要約するとフラカンの日々のあぶくは素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日の一曲

日々のあぶく/フラワーカンパニーズ